最近蔓延る地獄の表現

常々思うこと一つ。それは腐女子やヲタク、その他に蔓延る「地獄」の単語の乱用である。乱用と言えるほど地獄という単語は別の意味になってそこらに溢れている。ただ比喩表現としては間違ってはいない。
江戸の時代から地獄は格下の遊女を指したりしているのであながち間違いではないと思うのだが…。

ただ少しでも苦しそうな内容に対してすぐに「地獄だ~~~~!」って表現することに私は違和感を感じてしまうのだ。私はできるだけ地獄という言葉を使って表現はしたくない(まぁキャッチコピーなどに使うのならば考えた末に使うも知れないけども)。地獄っていうのは元々は魂の更生施設といえる場所である。数年から気が遠くなるほどの時間を使ってその地獄の拷問で罪を認識して幾度と無く身を焼かれ殺され痛めつけられて正しい心を持って転生するのが地獄である。
一説によれば歴史上の人物は今もア阿鼻地獄に行くための炎の道に今も落ち続けてるという話を聞いた。もう死んで何年も続いてるというのに本来受ける刑罰にいまだに到達できないでいると聞いて地獄のすごさを知った。
まぁ詳細な地獄は個人的には某鬼の補佐官漫画を読んでいただきたいところです。あれが一番わかりやすい。

そう、地獄は確かに比喩表現で使うこともあるが実際にはもっと激しく残酷な世界を指すのが適切だと思う。


と、こんな文章を書いたのは先日届いた「宝石の国 11巻」を読んだからに他ならない。あの漫画を皆地獄地獄と言うけど個人的にはあれは「地獄に到達するとかいう以前の話」として認識しているし11巻の内容はなんというかそもそもまだ「現世」に到達していない。
宝石の国は基本として弥勒菩薩の来世としての出世がベースになってるように思う。このことを踏まえると宝石の国自体、まだまだ地獄でもなければまだ誰も「生まれてない」のだろうと思う。
骨・肉・魂と分かれた人間がまた人間になろうとする。
フォスフォフィライトがすでに弥勒菩薩の座り方で地上に向かってるあたりもう悟りは近いんだろうと思う。正直、ゾッとした。彼はもう人間をすでに超えているのかもしれないとわかったのだ。
人間を超えさせるための改造、言うならば仏を作り出す。
賽の河原となった月、そこに行こうとしない地蔵菩薩。痺れを切らした子供たちは弥勒菩薩を作り出してしまった、というのが今のところの話なのか。

月に行き欲を知った宝石たちは自分の欲を満たすことに快感を知ってしまう。生々しいほどに宝石たちも人間に近くなってる。調べればおそらくは何かしら意味のある宝石が月にいるんじゃないかと思う。

はてさて、これを地獄と呼べるのか。個人的にこれは地獄ですらない、全てが地獄に行き着く前の話なんだ。「地獄」と表現するのは簡単だ。140字の中で2文字で表現できるのはさぞや簡単であろう。だけど私個人の思うところとしてはこれは地獄とはあまり言いたくない。

宝石たちや月の人、アドミラビリスはまだ"生まれてない"のだ。

 

なーんて、言うのを140字にまとめることができるならそりゃぁ二文字で終わらせたいよねぇって思うのでした。まぁ私は使わないけど。

 

 

 

宝石の国(11) (アフタヌーンコミックス)
 

 

本に収録した神さまという概念についての話

✦現在頒布中の二次創作同人誌に収録している前書きの文章です

✦ここだけならば二次創作には関係ないなと思い公開してます

 

ふと、"神は貴方を見てます"だとか"神は貴方の心に"だとか。そういうフレーズは宗教やそういう場にいたりアニメや漫画にいれば必ずといえるくらいには耳にしたり眼にしたりするのだろうと思う。
だがその言葉に私は何かデジャブを感じていた。
果たして神や仏というのは"概念"というよりは"本当に心にある何かではないのか"と。
神が見てるからその行いをしてはならない、その行いは素晴らしい主はお喜びになる。その心に住む神や仏というのはもしかして神が与えた理性という人間特有の意識ではないのか。

人間は動物の中で唯一理性を与えられ、その理性を最大に生かしこの文明を発展させた数少ない生き物である。理性があるから伝わらない意思を根気強く伝える術を作り出し音から音楽を、絵から絵画に文字を、叫び声や鳴き声を言葉へと変化させ今のこの世を発展させてきたと思う。それは素晴らしく誇れると思う。

ただ、人の本質である奥底にある野生である感情というのはどうしても出てきてしまう。それはもう理性を働かせ必死に守るしかないのであると考えてる。それは正直限界があると思うのです。
そこで出てくるのはそう、"神"や"仏"そういう存在だと思う。

人間がこれほどまでにあやふやで不確定で誰も見たことのないその存在を信じる。それはいわば自分の中にある"理性"を具現化し信じていくほかならないのではないのか。
目の前にある激情をどうにもできないくらい爆発させたい、できるなら辺り散らかし迷惑かけてもいいから全てを壊してもいいから知ってほしい!それではただの暴力的で野性的な言うなれば"理性がない粗暴な行為"でしかない。
だが、"神"や"仏"、その他の宗教にもいるような神たちがどう思うだろうか。きっとそれはしては駄目だと諭すのだろう。もう少し冷静になって少し周りを見渡し、自分はどういうことで苛立ったのか。そしてそれはどうすればもっともよい解決になるから"神と対話して考えよう"となると思う。
神の部分を"理性"に変えてみれば"自分で落ち着いてしっかり考えよう"ということになるのだ。
神父様や牧師様、仏教であれば住職やその他そういう職にいた人々はその昔は悩みの相談も受けただろうしそして導いてきたと思う。まさしく現代でいうならカウンセラーであると思うのです。

不明瞭であやふやな存在の神。それは私たち人間の心に確かに寄り添い必ず見ていてくれる。"理性"という生々しい言葉では理解が出来ずとも"神"や"仏"という概念を使うことで円滑でスムーズに私たちは知らず知らずのうちに"理性"を得ている。ただそれは私個人の言葉でしかないので全ての人間がそれではないと思うし私は無宗教だからこんな文章を打てるのだと自覚もしている。
素人の徒然な文章でしかない、ただ私は"理性"という言葉はきっと沢山の違う概念へと昇華しそれぞれの世界に溶け込んでるのではないんじゃないかと個人思う。
せっかく人間に生まれた、理性という最大の特徴を手にしている。
これは誇れるとは思うけど極々自然であり当たり前。当たり前だからこそ大切にすべき一つの特徴ではないかと思うのです。

 

 

✦これを二次創作でよく載せようと思ったよな…